――「初恋は実らない」なんて、一体誰が言い出したんだろう? もし初めて恋に落ちた相手が運命の人なら、百パーセント実らないとは限らないのに。
実際、わたしがそうだった。生まれて初めて恋をした相手が運命の人になったのだ。
わたしの名前は篠沢絢乃。現在まだ十九歳という若さながら、日本屈指の大財閥〈篠沢グループ〉の会長兼CEOである。
そして、わたしが初めて恋に落ちた相手は桐島貢。わたしより八歳年上で、会長秘書兼わたしの個人秘書でもある男性だ。
彼との出会いは今から二十ヶ月前。先代会長だった父・篠沢源一の四十五歳の誕生日だった。
わたしと彼との間には年齢差や経済格差、身分の差など様々な障壁があったけれど、それらを乗り越えて無事に結ばれた。わたしの初恋は見事に実ったのだ。
わたしは今、彼が初恋の相手で本当によかったと心から思っている。彼と一緒でなければ、父を早くに亡くした悲しみを乗り越えることも、現役高校生として大きな組織の舵取りをすることもできなかっただろうから。
そして今日この日、わたしは愛しいこの男性と新たな旅立ちの時を迎えようとしている――。
――ここは結婚式場。わたしはベアトップのデザインの真っ白なウェディングドレスに身を包んで、白いタキシードの上下にブルーのアスコットタイを結んだ彼と、花嫁の控え室で向き合っている。
「貢、わたしたち、やっとここまで辿り着いたね」
「ええ。今日までに色々なことがありましたけど、今日という日を無事に迎えられてよかったです」
「ホントに色んなことがあったね。わたしがストーカー男と対決したり、その前に貴方に不意討ちでキスされたり?」
「あれは……その、暴走してしまったというか。すみません。でも、あのおかげもあって僕たち、付き合い始められたようなものですから」
「うん……まぁね」
思い出話は尽きないけれど、わたしたちにとっていちばん忘れられない出来事はやっぱり父を亡くしたことだ。あの悲しい出来事をこの人と共有できたおかげで、わたしはあれから泣くことがなくなったのだ。
「そういえば絢乃さん、お義父さまのご葬儀の後、泣かれなくなりましたよね。強くなられたというか」
「それは、貴方っていう心強い秘書がついてくれたからだよ。まあ、忙しすぎて泣くヒマもなかったからっていうのもあるけどね」
大企業のトップとして、強くありたいとわたし自身が頑張ってきたから。でも背伸びはせず、時には周囲の人たちにも助けてもらいながら、わたしは経営者としても今日まで逞しく成長してこられたと思う。
「貴方と出会ったあの日は、今日みたいな日を迎えられるなんて夢にも思ってなかったけど」
「そうですね……。僕も多分、予想できてなかったと思います」
それは一年と八ヶ月前。わたしと彼が、会長令嬢とひとりの社員として出会った夜のことだった――。
――わたしが彼と初めて出会ったのは、二年前の十月半ば。グループの本部・篠沢商事本社の大ホールで父の誕生日パーティーが開かれていた夜のことだった。 父の家族として、母の加奈子(かなこ)とともに出席していたわたしは突然姿が見えなくなっていた父を探して会場内を歩き回っていた。やたら裾が広がってジャマになる桜色のミモレ丈のドレスに、歩きにくいハイヒールのパンプスでドレスアップして。 父はその数日前から体調を崩し、体重もかなり落ちていたけれど、「自分の誕生祝いの場に出ないわけにはいかないだろう」と無理をおして出席していた。「どこかで具合悪くなって、ひとりで倒れてたりしないかな……。なんか心配」 一度立ち止まり、辺(あた)りをキョロキョロと見回したその時だった。貢がその会場にいることに気づいたのは。 彼が明らかに会場内で浮いているなと感じたのは、彼ひとりだけが(わたしを除いて)ものすごく若かったから。着ていたのはグレーのスーツだったけれど、まだなじんでいない感じが見て取れたのだ。多分、入社してまだ五年と経っていないんじゃないかな、とわたしには推測できた。 身長は百八十センチあるかないかくらい。スラリと痩(や)せているけれど、貧弱というわけでもなく、程よくガッシリとした体型。そして、顔立ちはなかなかに整っている。間違いなく〝イケメン〟のカテゴリーには入るだろう。何より、優しそうな目元にわたしは惹(ひ)かれた。 それともう一つ、彼が周りの人たちに対してあまりにも腰が低かったから、というのもわたしが彼に注目した理由だった。この日招待されていたのはグループ企業の管理職以上の人たちばかりだったけれど、彼が役職(ポスト)に就(つ)くには若すぎたし、そもそもウチのグループに二十代の管理職がいたなんて話、わたしは父から一度も聞かされたことがなかった。「もしかしてあの人、誰か他の招待客の代理で来てるのかな……?」 ――と、思いがけず彼とわたしの目線が合った気がした。 あまりにもジロジロと凝(ぎょう)視(し)しすぎていたかも、と少し気まずく思い、それをごまかそうとこちらから笑顔で会(え)釈(しゃく)すると、彼も笑顔でお辞儀をしてくれた。 ……なんて律儀(りちぎ)な人。こんな年下の小娘に丁寧に頭を下げるなんて。――彼に対するわたしの第一印象はこれで、気がついたら彼のことが気
父が倒れたのは、それからすぐ後のことだった。突然ひどい目眩(めまい)に襲われ、立ち上がれなくなってしまったのだ。 わたしと母が驚いて呼びかけると、父はどう聞いても大丈夫じゃないでしょうと言いたくなるような声で「大丈夫だ」と言った。「〝大丈夫〟なわけないでしょ⁉ 顔色だって悪いのに」 わたしはそんな父を𠮟りつけた。父の体調がすぐれないのは誰が見ても明らかで、もうパーティーどころではないだろうとわたしも思った。というか、最初から無理をして出るべきではなかったのだ。「パパ……、今日はもう帰って休んだら? そんな状態じゃ、もうパーティーどころじゃないでしょ?」「そうね、私も絢乃の意見に賛成。あなた、帰りましょう? すぐに迎えを呼ぶわ」「……ああ、そうだな。申し訳ないが、そうさせてもらうことにするよ」 母は家で待機していたわが家の専属運転手に電話をかけて迎えを頼むと、わたしにも頼みごとをした。父が途中でいなくなると、会場にいる人たちが混乱すると思う。だから父の代理として会場に残り、頃合いを見て閉会の挨拶をしてほしい、と。「うん、分かった。任せて。ママ、パパのことよろしくね」 わたしは母の頼みごとを二つ返事で快諾(かいだく)した。責任重大だったけれど、こうなったらもうやるしかない、と腹を括(くく)った。 ――それから十数分後に運転手の寺(てら)田(だ)さんが到着し、母とともに父の体を支えて会場を後にした。多分、彼が運転してきた黒塗りのセンチュリーはビルの地下駐車場に止めてあったのだろう。「お嬢さまは一緒に帰らないのか」と彼が不思議そうに訊ねたので、母から頼まれたことを話すと納得してくれた。 その五分後にセンチュリーが夜の丸ノ内(まるのうち)の街に紛れていくのを、わたしはホールのガラス窓越しに眺めていた。 その後はやっぱり、父の具合を心配する人たちが押しかけてきて、わたしはその対応に追われた。それも落ち着いた頃、わたしはようやく自分がいたテーブルに戻ろうとしたのだけれど……。父が倒れたショックからか、対応疲れからか軽い目眩を起こしてしまった。「――絢乃さん、大丈夫ですか⁉」 倒れそうになったわたしを支えてくれたのは、慌てて飛んできた貢だった。――あ、この人はさっきの……。わたしの名前を知っていたことは不思議だったけれど、彼が助けてくれたのが偶然
「あの……ですね、絢乃さん。非常に申し上げにくいんですが」「はい?」「お父さまはもしかしたら、命に関わる病気をお持ちかもしれません。ですからこの際、大病院で精密検査を受けられることをお勧めしたいんですが」 あまりにも重々しい事実を突きつけられ、わたしはガツンと頭を殴られたようなショックを受けた。でも、彼が父のためを思って言ってくれていることもちゃんと分かっていた。「そうだよね。わたしもそう思う。でもね……、パパって病院嫌いなんだぁ。だからちゃんと聞いてもらえるかどうか」 わたしは二つめのケーキを食べる手を止めて、眉根にシワを寄せた。 父は昔から大の病院嫌いで、少し体調を崩したくらいでは病院に行こうとせず、いつも「これくらい、家で静養すればよくなる」とワガママを言っていた。けれど、さすがに命が脅かされるような大病の可能性がある以上、父には是が非でも検査を受けてもらわなければと思った。「でも、そんなこと言ってられないよね。ママにも協力してもらって、どうにかパパを説得してみる。桐島さん、アドバイスしてくれてありがとう」「いえ、そんな感謝されるようなことは何も……」 彼は照れくさそうに謙遜したけれど、わたしは彼に本当に感謝していた。自分の身内のことを言うなら誰にでもできるけど、お世話になっている勤め先の上役とはいえ赤の他人のことを心配してそういうアドバイスができる人はそうそういないと思ったから。 * * * * ――貢と二人、美味しいケーキを味わいながら楽しくおしゃべりをしていると、あっという間に三十分ほどが過ぎていた。 母に送信したLINEに返信があったのはそんな時だった。〈絢乃、返信が遅くなっちゃってごめんなさい! パパは寝室で休ませてます。 あなたのタイミングでいいから、閉会の挨拶よろしく。招待客のみなさんにちゃんとお詫びしておいてね〉 返信はこれだけかと思ったら、ピコンと次のフキダシが出てきた。〈あと、あなたの帰る手段として、総務課の桐島くんに家まで送ってもらうようお願いしておきました♡ 彼にもよろしく言っておいてね♪〉「…………えっ⁉」 驚いて、思わずスマホの画面を二度見した。と同時に、貢と母が何を楽しげに話していたのかが分かった気がした。「絢乃さん、どうかされました?」「ううん、別にっ!」 わたしはブンブンと彼
わたしには、彼が少し照れているようにも見えた。ハンドルを握る彼の横顔が月明かりに照らされて、思わずウットリと見とれてしまう。……どうしてわたし、彼のことがこんなに気になるんだろう? ――その後の会話は、彼の家族の話題に移っていった。 桐島家のお父さまは大手メガバンクの支店長さん、お母さまは若い頃保育士さんだったそうだ。貢には四歳上のお兄さまもいて、調理師として飲食店で働いていると聞いた。将来的には自分でお店をオープンさせたいのだとか。「へぇー、スゴいなぁ。立派な目標をお持ちなんだね。桐島さんにはないの? 夢とか目標とか」「…………まぁいいじゃないですか、僕のことは。今はこの会社で働けているだけで満足なので」 彼は明らかに、この質問への答えをはぐらかしていて、わたしはちょっと不満だった。「そんなことより、ちょっと不謹慎な質問をしてもいいですか?」「……えっ? うん……別にいいけど」「お父さまに万が一のことがあった場合、後継者はどなたになるんでしょうか」 つまり、父が亡くなった後ということだろう。娘であるわたしに気を遣って遠回しな表現をしてくれたのだと、わたしはすぐに気がついた。「う~んと、順当にいけばわたし……ってことになるのかなぁ。ママは経営に携(たずさ)わる気がないみたいだし、わたしは一人っ子だから」 ちなみに母も一人娘だったので、父が婿入りすることになったのだ。「お母さまは確か、以前教員をされていたんですよね。中学校の英語の」「うん、そうなの。だから元々経営に興味がなかったみたい。祖父が会長を引退した時も、自分は後継を辞退してパパに譲ったみたいだし。まぁ、ウチの当主ではあるんだけど」 その祖父も、今から五年前にこの世を去った。前年に心臓発作で他界した祖母の後を追うようにして。祖母が亡くなってから、祖父の体調が悪くなったことをわたしもよく憶えていた。「親戚の中には、パパが後継者になったことをよく思ってない人たちも少なくなかったなぁ。また揉(も)めることにならなきゃいいんだけど」 わたしは遠からず起きるであろうお家騒動を想像して、ウンザリとドレスの上に着ていた白いジャケットの襟(えり)をいじりながらため息をついた。「名門一族って、どこも大変なんですね……」「うん……、ホントに」 彼の素直なコメントに、わたしも頷いた。 篠沢
高級住宅街の一角に建つ篠沢邸は、第二次大戦後に建てられた白壁の大邸宅だ。庭こそないものの、立派な門構えとリムジンが三~四台は駐車できるカーポートが家の立派さを物語っている。 洋館だけれど玄関でスリッパに履き替える日本式の生活スタイルなので、わたしはスリッパの音をフローリングの床に響かせながらリビングへ飛び込んだ。「――ただいま」「お帰りなさい、絢乃。桐島くんは?」 先に帰宅していた母は、部屋着姿で出迎えてくれた。「もう帰っちゃった。ウチでお茶でも、って引き留めたんだけど」 落胆して答えたわたしを、母は優しく慰めてくれた。「そうなの。彼は優しいから、絢乃が疲れてるだろうからって遠慮したのかもしれないわね」「うん、そうみたい。でも連絡先は交換してもらえたから」 そして、出迎えてくれたのは母だけではなくもう一人。「お帰りなさいませ、お嬢さま。奥さまから伺いました。本日は大変でございましたねぇ」「ただいま、史子(ふみこ)さん」 彼女は住み込み家政婦の安田(やすだ)史子さん。当時は五十代半ばくらいで、家事一切を任されていて、すごく働き者だ。もちろん今も篠沢家で働いてくれている。「ママ、これからパパの説得に付き合ってくれる?」「えっ? いいけど……あなたも疲れてるでしょう? 少し休んでからでもいいんじゃないの?」「ううん、わたしなら大丈夫だから。行こう」 この時のわたしを突き動かしていたのは責任感だったのか、父への思い遣りだったのかは今でも分からない。母もわたしから強い意志を感じたらしく、快く父のところへついてきてくれた。 検査を受けるよう母とわたしから勧められた父は、案の定顔を曇らせた。不機嫌になるほどではなかったけれど、あまりいい反応ともいえなかった。「パパ、お願い。わたしもママも、検査を勧めてくれたその人だってパパの体が心配なんだよ? だからその気持ちは分かってほしいの。パパだって病気が早く分った方が安心でしょ?」 渋っていた父に、わたしはとどめの一押しをした。母とわたしの顔を見比べた父はとうとう降参した。「…………分かった、私の負けだよ。絢乃の言うとおりだな。明日にでも検査を受けてこよう。加奈子、私の携帯で後藤(ごとう)に連絡を取ってみてくれ」「ええ」 母は父に言われたとおり、父のスマホで電話をかけた。当時、大学病院の内科
――翌朝。学校へ行く支度を終え、朝食を済ませたわたしはダイニングで紅茶を飲んでいた母に声をかけた。「……じゃあ、行ってきます。ママ、パパのことは任せたよ。連絡待ってるから」「ええ、分かった。行ってらっしゃい」 史子さんが用意してくれていたお弁当の保冷バッグを持ち、スクールバッグを提げて家を出ようとしていると。「絢乃、制服のリボン曲がってるわよ。直してあげる」「あ……、ありがとう」 母は手慣れた手つきで、わたしの胸元の赤いリボンを直してくれた。 クリーム色のブレザーの制服は東京中の女子中高生たちの憧れらしく、初等部から唯一変わらないこの赤いリボンは茗桜女子の生徒たちのお気に入りなのだ。もちろんわたしも。ちなみに母もOGなのだそう。「……はい、できた。行ってらっしゃい。里歩ちゃんによろしく」「うん、行ってきます」 父のことはもちろん心配で、付き添いたい気持ちもまったくなかったわけではないけど。自分で「学校に行く」と決めたので、母を信じて連絡を待つことにして家を出た。 * * * * 里歩との朝の待ち合わせは、初等部に入学した頃からの習慣だった。里歩の家があるのが新宿(しんじゅく)で、京王(けいおう)線への乗換駅も新宿なので、自然と京王線の新宿駅ホームでの待ち合わせになったのだ。里歩は中等部からバレー部に所属していたので、朝練がない日限定だったけれど。「――あ、絢乃! おは~!」 待ち合わせのホームで元気よく手を振ってくれた里歩に、わたしも少し元気を取り戻した。身長が百六十七センチもある里歩は、同じ制服を着ていてもスカート丈がわたしよりちょっと短くなる。わたしはきっちり膝丈だ。 彼女はショートボブにした髪型と長身のせいで、制服を着ていなければ時々男の子に間違われることもある。「おはよ、里歩。待った?」「ううん、あたしも今来たとこだよ。今日来なかったらどうしようかと思った」「昨日の電話で『行く』って言ったでしょ。何の心配してんのよ」「そうだけどさぁ。――絢乃、昨日は大変だったね」「うん。まさかパパがあんなことになるなんて……」 父が倒れたことはショックだったけれど、なぜか思い出したのは貢のことだった。「でもね、悪いことばっかりじゃなかったの。実は、昨日の電話では言わなかったんだけど、ちょっと気になる人ができちゃって」「え
状況的には前日とほとんど変わっていないのに、わたしは何だかソワソワと落ち着かなかった。「彼のことが好きだ」と自覚したせいだったのかもしれない。「……迎えに来てくれたのが桐島さんで、なんかビックリしちゃった。てっきり寺田さんが来るものだと思ってたから」 それでも何か言わなきゃ、と話題を探して口を開いてみた。彼に父の病気のことを話すには、まだタイミング的に早いと思ったから。「寺田さんって、昨夜パーティー会場に来られていた方ですか? 五十代後半くらいでロマンスグレーの」「そう。篠沢家の専属ドライバーさんなの。もう三十年くらい、ウチで働いてくれてるらしいよ」「そうなんですね」 貢はこんなくだらない話題なのに、律儀に相槌を打ってくれた。「……でも、ビックリしたけど嬉しかったよ。来てくれたのが貴方で。……ってこんな時に何言ってるんだろうね、わたし! ゴメンね!?」 好きな人が迎えに来たからって浮かれている場合ではない、と我に帰り、この話は一旦リセットした。「ねえ、貴方と小川さんってどんな関係なの?」 これは多分嫉妬なんかじゃなくて、純粋な疑問だった。彼女が母からの個人的な頼まれごとを貢に託したということは、二人がプライベートでも近しい関係だからなのかな、と。「小川さんは、僕と同じ大学の二年先輩なんです。学生時代から色々とお世話になっていて……。でもそれだけです。先輩は僕のことをただの後輩としか思っていませんし、多分好きな人がいるはずなので」「…………小川さんに、好きな人?」 貢はなぜか言い訳がましく弁解していたけれど、わたしはそれよりもそっちの方が気になっていた。そして何となく分かっていた。それが父であることが。けれどそれは決して不倫なんかじゃなく、彼女の片想いだった。「――ところで絢乃さん。お父さまの病名は何だったんですか? お母さまから連絡があったんですよね?」「うん……、ちょっと待って」 わたしがなかなかこの話題を言い出せなかったのは、まだ心の準備が整っていなかったからだった。あまりにもショックが大きすぎて、胸が押し潰されそうで、気持ちの整理ができなかったからだ。「…………パパね、末期ガンで、余命三ヶ月だって」 やっとのことで言うと、彼もハッと息を呑んだのが分かった。「病状が進行しすぎて、もう手術はできないって。通院で抗ガン剤治療
状況的には前日とほとんど変わっていないのに、わたしは何だかソワソワと落ち着かなかった。「彼のことが好きだ」と自覚したせいだったのかもしれない。「……迎えに来てくれたのが桐島さんで、なんかビックリしちゃった。てっきり寺田さんが来るものだと思ってたから」 それでも何か言わなきゃ、と話題を探して口を開いてみた。彼に父の病気のことを話すには、まだタイミング的に早いと思ったから。「寺田さんって、昨夜パーティー会場に来られていた方ですか? 五十代後半くらいでロマンスグレーの」「そう。篠沢家の専属ドライバーさんなの。もう三十年くらい、ウチで働いてくれてるらしいよ」「そうなんですね」 貢はこんなくだらない話題なのに、律儀に相槌を打ってくれた。「……でも、ビックリしたけど嬉しかったよ。来てくれたのが貴方で。……ってこんな時に何言ってるんだろうね、わたし! ゴメンね!?」 好きな人が迎えに来たからって浮かれている場合ではない、と我に帰り、この話は一旦リセットした。「ねえ、貴方と小川さんってどんな関係なの?」 これは多分嫉妬なんかじゃなくて、純粋な疑問だった。彼女が母からの個人的な頼まれごとを貢に託したということは、二人がプライベートでも近しい関係だからなのかな、と。「小川さんは、僕と同じ大学の二年先輩なんです。学生時代から色々とお世話になっていて……。でもそれだけです。先輩は僕のことをただの後輩としか思っていませんし、多分好きな人がいるはずなので」「…………小川さんに、好きな人?」 貢はなぜか言い訳がましく弁解していたけれど、わたしはそれよりもそっちの方が気になっていた。そして何となく分かっていた。それが父であることが。けれどそれは決して不倫なんかじゃなく、彼女の片想いだった。「――ところで絢乃さん。お父さまの病名は何だったんですか? お母さまから連絡があったんですよね?」「うん……、ちょっと待って」 わたしがなかなかこの話題を言い出せなかったのは、まだ心の準備が整っていなかったからだった。あまりにもショックが大きすぎて、胸が押し潰されそうで、気持ちの整理ができなかったからだ。「…………パパね、末期ガンで、余命三ヶ月だって」 やっとのことで言うと、彼もハッと息を呑んだのが分かった。「病状が進行しすぎて、もう手術はできないって。通院で抗ガン剤治療
――翌朝。学校へ行く支度を終え、朝食を済ませたわたしはダイニングで紅茶を飲んでいた母に声をかけた。「……じゃあ、行ってきます。ママ、パパのことは任せたよ。連絡待ってるから」「ええ、分かった。行ってらっしゃい」 史子さんが用意してくれていたお弁当の保冷バッグを持ち、スクールバッグを提げて家を出ようとしていると。「絢乃、制服のリボン曲がってるわよ。直してあげる」「あ……、ありがとう」 母は手慣れた手つきで、わたしの胸元の赤いリボンを直してくれた。 クリーム色のブレザーの制服は東京中の女子中高生たちの憧れらしく、初等部から唯一変わらないこの赤いリボンは茗桜女子の生徒たちのお気に入りなのだ。もちろんわたしも。ちなみに母もOGなのだそう。「……はい、できた。行ってらっしゃい。里歩ちゃんによろしく」「うん、行ってきます」 父のことはもちろん心配で、付き添いたい気持ちもまったくなかったわけではないけど。自分で「学校に行く」と決めたので、母を信じて連絡を待つことにして家を出た。 * * * * 里歩との朝の待ち合わせは、初等部に入学した頃からの習慣だった。里歩の家があるのが新宿(しんじゅく)で、京王(けいおう)線への乗換駅も新宿なので、自然と京王線の新宿駅ホームでの待ち合わせになったのだ。里歩は中等部からバレー部に所属していたので、朝練がない日限定だったけれど。「――あ、絢乃! おは~!」 待ち合わせのホームで元気よく手を振ってくれた里歩に、わたしも少し元気を取り戻した。身長が百六十七センチもある里歩は、同じ制服を着ていてもスカート丈がわたしよりちょっと短くなる。わたしはきっちり膝丈だ。 彼女はショートボブにした髪型と長身のせいで、制服を着ていなければ時々男の子に間違われることもある。「おはよ、里歩。待った?」「ううん、あたしも今来たとこだよ。今日来なかったらどうしようかと思った」「昨日の電話で『行く』って言ったでしょ。何の心配してんのよ」「そうだけどさぁ。――絢乃、昨日は大変だったね」「うん。まさかパパがあんなことになるなんて……」 父が倒れたことはショックだったけれど、なぜか思い出したのは貢のことだった。「でもね、悪いことばっかりじゃなかったの。実は、昨日の電話では言わなかったんだけど、ちょっと気になる人ができちゃって」「え
高級住宅街の一角に建つ篠沢邸は、第二次大戦後に建てられた白壁の大邸宅だ。庭こそないものの、立派な門構えとリムジンが三~四台は駐車できるカーポートが家の立派さを物語っている。 洋館だけれど玄関でスリッパに履き替える日本式の生活スタイルなので、わたしはスリッパの音をフローリングの床に響かせながらリビングへ飛び込んだ。「――ただいま」「お帰りなさい、絢乃。桐島くんは?」 先に帰宅していた母は、部屋着姿で出迎えてくれた。「もう帰っちゃった。ウチでお茶でも、って引き留めたんだけど」 落胆して答えたわたしを、母は優しく慰めてくれた。「そうなの。彼は優しいから、絢乃が疲れてるだろうからって遠慮したのかもしれないわね」「うん、そうみたい。でも連絡先は交換してもらえたから」 そして、出迎えてくれたのは母だけではなくもう一人。「お帰りなさいませ、お嬢さま。奥さまから伺いました。本日は大変でございましたねぇ」「ただいま、史子(ふみこ)さん」 彼女は住み込み家政婦の安田(やすだ)史子さん。当時は五十代半ばくらいで、家事一切を任されていて、すごく働き者だ。もちろん今も篠沢家で働いてくれている。「ママ、これからパパの説得に付き合ってくれる?」「えっ? いいけど……あなたも疲れてるでしょう? 少し休んでからでもいいんじゃないの?」「ううん、わたしなら大丈夫だから。行こう」 この時のわたしを突き動かしていたのは責任感だったのか、父への思い遣りだったのかは今でも分からない。母もわたしから強い意志を感じたらしく、快く父のところへついてきてくれた。 検査を受けるよう母とわたしから勧められた父は、案の定顔を曇らせた。不機嫌になるほどではなかったけれど、あまりいい反応ともいえなかった。「パパ、お願い。わたしもママも、検査を勧めてくれたその人だってパパの体が心配なんだよ? だからその気持ちは分かってほしいの。パパだって病気が早く分った方が安心でしょ?」 渋っていた父に、わたしはとどめの一押しをした。母とわたしの顔を見比べた父はとうとう降参した。「…………分かった、私の負けだよ。絢乃の言うとおりだな。明日にでも検査を受けてこよう。加奈子、私の携帯で後藤(ごとう)に連絡を取ってみてくれ」「ええ」 母は父に言われたとおり、父のスマホで電話をかけた。当時、大学病院の内科
わたしには、彼が少し照れているようにも見えた。ハンドルを握る彼の横顔が月明かりに照らされて、思わずウットリと見とれてしまう。……どうしてわたし、彼のことがこんなに気になるんだろう? ――その後の会話は、彼の家族の話題に移っていった。 桐島家のお父さまは大手メガバンクの支店長さん、お母さまは若い頃保育士さんだったそうだ。貢には四歳上のお兄さまもいて、調理師として飲食店で働いていると聞いた。将来的には自分でお店をオープンさせたいのだとか。「へぇー、スゴいなぁ。立派な目標をお持ちなんだね。桐島さんにはないの? 夢とか目標とか」「…………まぁいいじゃないですか、僕のことは。今はこの会社で働けているだけで満足なので」 彼は明らかに、この質問への答えをはぐらかしていて、わたしはちょっと不満だった。「そんなことより、ちょっと不謹慎な質問をしてもいいですか?」「……えっ? うん……別にいいけど」「お父さまに万が一のことがあった場合、後継者はどなたになるんでしょうか」 つまり、父が亡くなった後ということだろう。娘であるわたしに気を遣って遠回しな表現をしてくれたのだと、わたしはすぐに気がついた。「う~んと、順当にいけばわたし……ってことになるのかなぁ。ママは経営に携(たずさ)わる気がないみたいだし、わたしは一人っ子だから」 ちなみに母も一人娘だったので、父が婿入りすることになったのだ。「お母さまは確か、以前教員をされていたんですよね。中学校の英語の」「うん、そうなの。だから元々経営に興味がなかったみたい。祖父が会長を引退した時も、自分は後継を辞退してパパに譲ったみたいだし。まぁ、ウチの当主ではあるんだけど」 その祖父も、今から五年前にこの世を去った。前年に心臓発作で他界した祖母の後を追うようにして。祖母が亡くなってから、祖父の体調が悪くなったことをわたしもよく憶えていた。「親戚の中には、パパが後継者になったことをよく思ってない人たちも少なくなかったなぁ。また揉(も)めることにならなきゃいいんだけど」 わたしは遠からず起きるであろうお家騒動を想像して、ウンザリとドレスの上に着ていた白いジャケットの襟(えり)をいじりながらため息をついた。「名門一族って、どこも大変なんですね……」「うん……、ホントに」 彼の素直なコメントに、わたしも頷いた。 篠沢
「あの……ですね、絢乃さん。非常に申し上げにくいんですが」「はい?」「お父さまはもしかしたら、命に関わる病気をお持ちかもしれません。ですからこの際、大病院で精密検査を受けられることをお勧めしたいんですが」 あまりにも重々しい事実を突きつけられ、わたしはガツンと頭を殴られたようなショックを受けた。でも、彼が父のためを思って言ってくれていることもちゃんと分かっていた。「そうだよね。わたしもそう思う。でもね……、パパって病院嫌いなんだぁ。だからちゃんと聞いてもらえるかどうか」 わたしは二つめのケーキを食べる手を止めて、眉根にシワを寄せた。 父は昔から大の病院嫌いで、少し体調を崩したくらいでは病院に行こうとせず、いつも「これくらい、家で静養すればよくなる」とワガママを言っていた。けれど、さすがに命が脅かされるような大病の可能性がある以上、父には是が非でも検査を受けてもらわなければと思った。「でも、そんなこと言ってられないよね。ママにも協力してもらって、どうにかパパを説得してみる。桐島さん、アドバイスしてくれてありがとう」「いえ、そんな感謝されるようなことは何も……」 彼は照れくさそうに謙遜したけれど、わたしは彼に本当に感謝していた。自分の身内のことを言うなら誰にでもできるけど、お世話になっている勤め先の上役とはいえ赤の他人のことを心配してそういうアドバイスができる人はそうそういないと思ったから。 * * * * ――貢と二人、美味しいケーキを味わいながら楽しくおしゃべりをしていると、あっという間に三十分ほどが過ぎていた。 母に送信したLINEに返信があったのはそんな時だった。〈絢乃、返信が遅くなっちゃってごめんなさい! パパは寝室で休ませてます。 あなたのタイミングでいいから、閉会の挨拶よろしく。招待客のみなさんにちゃんとお詫びしておいてね〉 返信はこれだけかと思ったら、ピコンと次のフキダシが出てきた。〈あと、あなたの帰る手段として、総務課の桐島くんに家まで送ってもらうようお願いしておきました♡ 彼にもよろしく言っておいてね♪〉「…………えっ⁉」 驚いて、思わずスマホの画面を二度見した。と同時に、貢と母が何を楽しげに話していたのかが分かった気がした。「絢乃さん、どうかされました?」「ううん、別にっ!」 わたしはブンブンと彼
父が倒れたのは、それからすぐ後のことだった。突然ひどい目眩(めまい)に襲われ、立ち上がれなくなってしまったのだ。 わたしと母が驚いて呼びかけると、父はどう聞いても大丈夫じゃないでしょうと言いたくなるような声で「大丈夫だ」と言った。「〝大丈夫〟なわけないでしょ⁉ 顔色だって悪いのに」 わたしはそんな父を𠮟りつけた。父の体調がすぐれないのは誰が見ても明らかで、もうパーティーどころではないだろうとわたしも思った。というか、最初から無理をして出るべきではなかったのだ。「パパ……、今日はもう帰って休んだら? そんな状態じゃ、もうパーティーどころじゃないでしょ?」「そうね、私も絢乃の意見に賛成。あなた、帰りましょう? すぐに迎えを呼ぶわ」「……ああ、そうだな。申し訳ないが、そうさせてもらうことにするよ」 母は家で待機していたわが家の専属運転手に電話をかけて迎えを頼むと、わたしにも頼みごとをした。父が途中でいなくなると、会場にいる人たちが混乱すると思う。だから父の代理として会場に残り、頃合いを見て閉会の挨拶をしてほしい、と。「うん、分かった。任せて。ママ、パパのことよろしくね」 わたしは母の頼みごとを二つ返事で快諾(かいだく)した。責任重大だったけれど、こうなったらもうやるしかない、と腹を括(くく)った。 ――それから十数分後に運転手の寺(てら)田(だ)さんが到着し、母とともに父の体を支えて会場を後にした。多分、彼が運転してきた黒塗りのセンチュリーはビルの地下駐車場に止めてあったのだろう。「お嬢さまは一緒に帰らないのか」と彼が不思議そうに訊ねたので、母から頼まれたことを話すと納得してくれた。 その五分後にセンチュリーが夜の丸ノ内(まるのうち)の街に紛れていくのを、わたしはホールのガラス窓越しに眺めていた。 その後はやっぱり、父の具合を心配する人たちが押しかけてきて、わたしはその対応に追われた。それも落ち着いた頃、わたしはようやく自分がいたテーブルに戻ろうとしたのだけれど……。父が倒れたショックからか、対応疲れからか軽い目眩を起こしてしまった。「――絢乃さん、大丈夫ですか⁉」 倒れそうになったわたしを支えてくれたのは、慌てて飛んできた貢だった。――あ、この人はさっきの……。わたしの名前を知っていたことは不思議だったけれど、彼が助けてくれたのが偶然
――わたしが彼と初めて出会ったのは、二年前の十月半ば。グループの本部・篠沢商事本社の大ホールで父の誕生日パーティーが開かれていた夜のことだった。 父の家族として、母の加奈子(かなこ)とともに出席していたわたしは突然姿が見えなくなっていた父を探して会場内を歩き回っていた。やたら裾が広がってジャマになる桜色のミモレ丈のドレスに、歩きにくいハイヒールのパンプスでドレスアップして。 父はその数日前から体調を崩し、体重もかなり落ちていたけれど、「自分の誕生祝いの場に出ないわけにはいかないだろう」と無理をおして出席していた。「どこかで具合悪くなって、ひとりで倒れてたりしないかな……。なんか心配」 一度立ち止まり、辺(あた)りをキョロキョロと見回したその時だった。貢がその会場にいることに気づいたのは。 彼が明らかに会場内で浮いているなと感じたのは、彼ひとりだけが(わたしを除いて)ものすごく若かったから。着ていたのはグレーのスーツだったけれど、まだなじんでいない感じが見て取れたのだ。多分、入社してまだ五年と経っていないんじゃないかな、とわたしには推測できた。 身長は百八十センチあるかないかくらい。スラリと痩(や)せているけれど、貧弱というわけでもなく、程よくガッシリとした体型。そして、顔立ちはなかなかに整っている。間違いなく〝イケメン〟のカテゴリーには入るだろう。何より、優しそうな目元にわたしは惹(ひ)かれた。 それともう一つ、彼が周りの人たちに対してあまりにも腰が低かったから、というのもわたしが彼に注目した理由だった。この日招待されていたのはグループ企業の管理職以上の人たちばかりだったけれど、彼が役職(ポスト)に就(つ)くには若すぎたし、そもそもウチのグループに二十代の管理職がいたなんて話、わたしは父から一度も聞かされたことがなかった。「もしかしてあの人、誰か他の招待客の代理で来てるのかな……?」 ――と、思いがけず彼とわたしの目線が合った気がした。 あまりにもジロジロと凝(ぎょう)視(し)しすぎていたかも、と少し気まずく思い、それをごまかそうとこちらから笑顔で会(え)釈(しゃく)すると、彼も笑顔でお辞儀をしてくれた。 ……なんて律儀(りちぎ)な人。こんな年下の小娘に丁寧に頭を下げるなんて。――彼に対するわたしの第一印象はこれで、気がついたら彼のことが気
――「初恋は実らない」なんて、一体誰が言い出したんだろう? もし初めて恋に落ちた相手が運命の人なら、百パーセント実らないとは限らないのに。 実際、わたしがそうだった。生まれて初めて恋をした相手が運命の人になったのだ。 わたしの名前は篠沢(しのざわ)絢(あや)乃(の)。現在まだ十九歳という若さながら、日本屈指の大財閥〈篠沢グループ〉の会長兼CEOである。 そして、わたしが初めて恋に落ちた相手は桐島(きりしま)貢(みつぐ)。わたしより八歳年上で、会長秘書兼わたしの個人秘書でもある男性だ。 彼との出会いは今から二十ヶ月前。先代会長だった父・篠沢源一(げんいち)の四十五歳の誕生日だった。 わたしと彼との間には年齢差や経済格差、身分の差など様々な障壁があったけれど、それらを乗り越えて無事に結ばれた。わたしの初恋は見事に実ったのだ。 わたしは今、彼が初恋の相手で本当によかったと心から思っている。彼と一緒でなければ、父を早くに亡くした悲しみを乗り越えることも、現役高校生として大きな組織の舵(かじ)取りをすることもできなかっただろうから。 そして今日この日、わたしは愛しいこの男性(ひと)と新たな旅立ちの時を迎えようとしている――。 ――ここは結婚式場。わたしはベアトップのデザインの真っ白なウェディングドレスに身を包んで、白いタキシードの上下にブルーのアスコットタイを結んだ彼と、花嫁の控え室で向き合っている。「貢、わたしたち、やっとここまで辿り着いたね」「ええ。今日までに色々なことがありましたけど、今日という日を無事に迎えられてよかったです」「ホントに色んなことがあったね。わたしがストーカー男と対決したり、その前に貴方に不意討ちでキスされたり?」「あれは……その、暴走してしまったというか。すみません。でも、あのおかげもあって僕たち、付き合い始められたようなものですから」「うん……まぁね」 思い出話は尽きないけれど、わたしたちにとっていちばん忘れられない出来事はやっぱり父を亡くしたことだ。あの悲しい出来事をこの人と共有できたおかげで、わたしはあれから泣くことがなくなったのだ。「そういえば絢乃さん、お義父(とう)さまのご葬儀の後、泣かれなくなりましたよね。強くなられたというか」「それは、貴方っていう心強い秘書がついてくれたからだよ。まあ、忙しすぎて